コラム記事として、タイで活躍する、活躍した、日本人について、これから取り上げてみたいと思います。今回は、タイが親日となった事に大きく貢献した、ある日本の軍人の実話です。
タイで大人気の、日本兵とタイ人女性の悲劇の恋愛を描いたドラマ「クーカム(運命の人)」
タイ人なら皆知っている、日本兵”小堀(コボリ)”とタイ人女性”アンスマリン”の悲しいラブストーリーに「クーカム」というドラマがあります。この「クーカム」というのは「運命の人」という意味です。
ドラマのざっくりとしたストーリーは、こんな話です。(ネタバレあり)
時は第二次世界大戦中、タイに進駐した日本軍の幹部に、小堀という人物がいた。
小堀はバンコクのピンクラオ橋(今のカオサンの近くにある大きな橋です)のふもとにある日本軍の造船所で勤務していた。
その小堀と結婚したのが、タイ人女性のアンスマリン。彼女はタイ人の婚約者がいたのだが、抗日レジスタンス活動(自由タイ運動)の指導者であった父親に、日本軍高官の小堀と偽装のための政略結婚をさせられてしまう。
アンスマリンは父親の影響もあって、軍事力で威嚇しながら進軍してきた日本軍への反感が強く、小堀や日本兵を嫌悪していた。しかし実際に会ってみると、小堀は大変に紳士的で、強く男らしい日本の軍人。
小堀は嫌悪感を持つアンスマリンの様子を見て、そのアンスマリンをなだめながら、夜の営みもしないなどといったアンスマリンのいろいろな要求をすべて受け入れて一緒に暮らすようになっていく。やがて一緒にいるうちに、アンスマリンは人間的な魅力のある小堀の行動を見て、次第に小堀に好意を持つようになる。
しかし時は戦時中の話。
日本に協力し同盟を結んでいた親日のタイ政府は、バンコクでも連合軍からの空襲が激しくなり、大きな被害を受けるようになっていく。
そして戦局も悪化していったある日、バンコクにいた小堀も連合軍の空襲で命を失ってしまう。
その時にはアンスマリンは小堀を愛しており、小堀こそが運命の人だったと気づくが、気づいた時には小堀は亡くなってしまっていたという悲しい運命だった。
と、ざっくりというとこんな話です。
このドラマ、タイで1969年に雑誌で発表されると大変な反響となり大人気に。翌年の1970年にはテレビドラマ化、その後には何度もドラマ、映画でリメークされ、タイ人なら一度は見たことがあるドラマとなりました。
日本でも「メナムの残照」というタイトルで、この小説は出版されました。(日本の小説は、すでに絶版しています。)
以下は、この「クーカム」の映画版の予告編、一部日本語字幕付きです。
映像を見てもらうとわかるように、日本兵の小堀役も含めて、タイ人が演じています。
人気のあるドラマや映画なんで、小堀役、アンスマリン役ともに、その時のタイの非常に旬な俳優、女優が演じるので有名です。
そんなクーカム、恋愛の話などはもちろんフィクションなのですが、このドラマのモデルとなった実話が、実際にはあるのです。
その実話は、タイで活躍したこんな日本人がいたというお話です。
日本軍のタイへの進駐
1940年、アジア諸国は日本とタイ以外はすべて西洋の植民地とされている時代でした。
この時、すでに欧州ではナチスドイツが連戦連勝を続け領土、影響範囲を拡大させており、フランスはドイツに敗れて非常に弱体化していました。
アジアでは、フランス領インドシナ(現在のベトナム)が、フランス本土の敗戦により弱体化。すると当時、日中戦争を戦っていた日本軍は、中国の蒋介石側を支援する英米による武器補給のルート(援蒋ルート)の遮断と、ベトナムにある豊富な資源を得ることを目的として、フランス領インドシナへの進駐を狙うようになりました。
この1940年に独断でフランス領インドシナに攻め入った日本軍の部隊がありました。この部隊を率いていたのが、日本の陸軍中将、中村明人(ナカムラ アケト)です。
陸軍中将 中村明人 (なかむら あけと)
日本軍のフランス領インドシナ(ベトナム)への進行などもあって、日米関係はさらに悪化。翌年の1941年12月には日本はアメリカの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まる事となります。戦争がはじまると、日本はフランス領インドシナなども含め、アジアの広範囲を占領します。
このうち東南アジアの占領地を管理するために日本軍はタイを軍事拠点として重視しており、1941年12月の開戦直後からタイへの日本軍の進駐を開始しました。
このころ、タイはプレーク・ピブンソンクラーム(ピブン)政権という親日の政権であり、日本の同盟国でした。しかしながら軍事力で威嚇して進駐してきた日本軍へのタイの民衆の反発は大きく、タイ現地では日本への嫌悪感が強くありました。今の親日のタイからは想像もできないような時代です。
ここで激しさを増したのが、自由タイ運動(Free Thai)という、抗日レジスタンス活動でした。
これは英米の情報機関が日本の弱体化のために作らせたレジスタンス活動組織です。
自由タイ運動(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%82%BF%E3%82%A4%E9%81%8B%E5%8B%95
当時、タイに進駐した日本軍の兵士はタイの文化などに疎いことが多く、例えばタイの僧侶が連合軍兵士の捕虜に施しとして煙草をあげるのを見て、日本兵が僧侶を殴ってしまう、これによりタイ警察と日本軍とで銃撃戦が起きるなどの事件が多発。このような事件によりタイの民衆の反日感情は増し、抗日レジスタンスの自由タイ運動が勢いを増していきます。
その後戦局は悪化し、日本の同盟国であるタイでは英米など連合国からの空襲が激しくなっていき、日本が劣勢となる中で、ますます反日感情が高まる事態となりました。
このような状況を受けて、1943年にタイに進駐していた日本陸軍の第18軍司令官に着任し、タイに進駐する日本陸軍のトップとなったのが中村でした。
中村は日本陸軍幹部の中でも「ホトケの司令官」と呼ばれるほどに温厚な人柄で、力強い軍人でした。
中村の戦術思想は事前に充分な準備を整え、万全な対策を練り、まず勝つべきを為して戦うことを徹底していたといい、常々、部隊統率の本義は孫氏の兵法を引用して「愛情と厳正」と説いたといいます。
中村の人望は厚く、中村が陸軍大学校で教鞭をとっていた折にも、生徒たちからは実の父のように慕われていた人物だったという記録もあります。(陸大47期生記録)
この頃、日本陸軍の強硬派は、抗日レジスタンス活動が活発化したタイを、軍事力で強硬に制圧し武装解除させるべきという強硬論を強く主張していました。
しかし第18軍司令官となった中村は、これを止めにかかります。同盟国であるタイの国民を軍事力で威嚇し、さらに交戦をすれば、反日感情がさらに高まるばかりとなってしまうため、これを止めたのです。
そして中村は、日本軍がタイで反発を招かないよう、日本兵にタイで気を付けるべきことなどの指導を徹底していきます。
中村は、タイでは子供の頭をなでてはいけない、僧侶は敬わらなければならないなど、日本人がタイでの生活で気を付けるべき事を、わかりやすく冊子にして「べからず集」として配布するなどしました。
このような中村の判断と、懸命な取り組みをする姿を目の当たりにして、タイの人も含めて多くの人が中村に心服したといわれています。
しかしながらその後、戦局はさらに悪化の一途を辿ります。
1944年7月にはサイパンが陥落し、日本本土への空襲も激しさを増します。
これを受けて日本では東条英樹内閣が失脚、タイでも親日の政権だったピブン内閣が失脚し、アパイウォン内閣となります。
この頃には連合軍によるタイへの空襲も、さらに激しさを増していきました。タイの人心も敗色濃厚な日本軍から離れ、自由タイ運動も激しさを増していきました。
タイのアパイウォン内閣は表面上は日本軍に協力しているかのように振る舞いますが、実際には裏で自由タイ運動に協力していました。
このことを日本軍は察知しており、日本陸軍の中では、タイを武力制圧して武装解除させて軍政を敷くべきだという強硬論がさらに強まっていました。
この頃には自由タイ運動側はタイの政府、軍などタイ側と強く繋がり、バンコクの要所各地へ”連合軍の侵入に備える為”という名目でトーチカなどを次々と建設していきました。しかしこれは実際には日本軍と戦う抗日運動のためであることは明白だったので、日本軍もトーチカや陣地、砲台などをバンコクに多数構築して対抗しました。
こうして日本軍とタイ側は、一触即発の事態に至りました。
しかしここでも中村は、日本軍がタイ側へ武力攻撃する事を必死で止めます。
中村は「自由タイは、戦局を左右するものではない。」、「長い目で日泰関係を見ると、相互に戦争や占領という汚点は残すべきではない。」と説いて、日本とタイの将来の関係まで考えて、攻撃を止めたといいます。
このようにして、中村の判断と取り組みにより、ついに1945年8月に日本が敗戦するまで日本とタイとで交戦する事はありませんでした。
日本の降伏後、日本は敗戦国としてGHQに占領されて戦後処理を行われることとなりますが、タイは英米への協力をしていた自由タイ運動への評価などによって、敗戦国として処理される事を免れることができました。このようにしてタイは戦後処理での被害を少なく止めることができたのです。
中村は敗戦時に捕虜となり、その後は連合軍のA級戦犯の逮捕リストに載せられ、日本の東京にあった巣鴨プリズンに収容されますが、1946年9月に不起訴となり釈放されました。
そして戦後約10年がたった1955年(昭和30年)、中村はタイの政府高官から国賓として、戦後のタイに招かれました。
戦後のタイに行った中村は、驚かされます。
タイでは戦後約10年がたっても、中村の事を覚えてくれている人、慕ってくれる人がものすごく多くいて、中村はタイの政府と群衆から大変な歓待を受けたのです。
この時の事を中村は「まるで竜宮城に行った浦島太郎のような思いだ」と語ったといいます。
このような人物が、中村明人でした。
戦後にタイで、中村をモデルにした小説が大ヒット
この後、中村と交友のあったタイの要人の娘が作家となり、彼女は父からよく聞いていた中村をモデルにして、小説を書きました。これが冒頭の「クーカム」です。
この作品は中村をモデルに、作者の理想とする男性像を投影し、恋愛物語のフィクションとして作り上げられたものでした。
この小説がタイで大変なヒットをし、中村をモデルにした日本軍幹部の小堀(コボリ)は今や、タイ人は皆知っている日本人の名前となり、今のタイが親日となる要因の一つとなったのです。
クーカムの作者は後に、インタビューを受けた際に、こんな事を語っています。
「戦争中の日本軍は、たとえばタイ人が釣りをしている時に、当時は釣り針がなかなか手に入らないで全然釣れないでいると、翌日にタイ人のために釣り針をもってきて、プレゼントしてくれた。こんな日本兵のやさしい姿があった事も伝えたかった。」
クーカムの恋愛物語自体はフィクションです。
しかし現実には、中村のような日本人の多大な努力があって、このような物語が生まれ、それもあってタイにおける日本のイメージが良くなり、今の親日のタイと、良好な日泰関係がある、そんな事を考えさせられる実話です。
なお、クーカムの物語に登場する、小堀が勤務するバンコクのピンクラオ橋のふもとの日本軍の造船所は、実在した造船所です。
当時は主に日本軍の輸送船などを作っており、出来上がった輸送船はバンコク北のバンコクノーイ駅に運ばれ、そこから泰緬鉄道でミャンマー戦線などへ運ばれていました。この泰緬鉄道は映画「戦争にかける橋」で、世界的に有名となった鉄道です。
泰緬鉄道(Wikipedia):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E7%B7%AC%E9%89%84%E9%81%93
(余談:バンコクのおすすめ観光スポット)
中村が司令官を務めた日本陸軍の第18軍の司令部の建物は、バンコクに現存しており、今は高級タイ料理レストランとして営業しています。
戦争中は「作戦の神様」と言われた陸軍参謀の辻政信の記録でも、上司である中村に会いに行く際に登場する第18軍司令部が、まさにこの建物です。
(辻は終戦時はバンコクにいましたが、上司の中村に願い出て、日本の復活のためとしてバンコクで僧侶となって潜伏。戦後は日本に戻り戦記などを執筆し、その後は国会議員などを務めましたが、昭和36年4月にラオスへ視察として赴いた際に消息を絶ち、その後の行方は今でも不明です。)
当時の面影が随所に偲ばれる建物と、高級タイ料理が楽しめるお店なので、一度行ってみられるのはいかがでしょうか。
ブルーエレファント (バンコク:BTS Surasak駅すぐ)
旧日本陸軍18軍司令部
ブルーエレファント公式ウェブサイト
http://www.blueelephant.com/bangkok/
トリップアドバイザー(ブルーエレファント)
https://www.tripadvisor.jp/Restaurant_Review-g293916-d864325-Reviews-Blue_Elephant_Restaurant-Bangkok.html
さらに余談
パタヤ日本人会(PJA)の会員も、小堀の上司役として出演して一緒に写っています。
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