2019年2月5日 PJA NEWS)

タイで拘束中のバーレーン選手「送還しないで」と訴え

PJA NEWSの以下の過去記事の、バーレーン出身のサッカー選手がタイでの拘束が続いている問題について続報です。

PJA NEWS過去記事)タイ:バーレーンのサッカー選手の拘束が続く (2019年1月25日)
https://pattayaja.com/2019/01/25/%E3%82%BF%E3%82%A4%EF%BC%9A%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E9%81%B8%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%8B%98%E6%9D%9F%E3%81%8C%E7%B6%9A%E3%81%8F/

昨日の2019年2月4日、タイの裁判所で同選手の拘留を延長するかどうかを審議する裁判が開かれました。

同選手はバーレーンに送還しないように訴えましたが、裁判所は拘束を2か月間延長する命令を出し、引き続き拘留が続く事になりました。

以下の通りAFP通信が日本でも報道しています。

(AFP)タイで拘束、バーレーン出身の難民サッカー選手が解放訴え 「送還しないで」 (2019年2月4日)
http://www.afpbb.com/articles/-/3209626

(以下、引用)

オーストラリアで難民認定を受けたバーレーン出身のサッカー選手、ハキム・アライビ(Hakeem al-Araibi)氏(25)が昨年11月からタイで拘束されている。4日、バンコクの裁判所に出廷したアライビ氏は「バーレーンに送還しないでほしい」と解放を訴えたが、裁判所は勾留期間の2か月延長を命じた。

 アライビ氏はバーレーン代表のユースチームでプレーしていたが、母国からオーストラリアに亡命し、難民申請が認められた。その後、オーストラリアのセミプロクラブ「パスコーベールFC(Pascoe Vale FC)」でプレーしていた。

 しかし昨年11月、バーレーン政府の送還要請により、休暇のため訪れたタイ・バンコクの空港で拘束された。それ以降、タイの裁判所が送還の是非を検討している。

 アライビ氏は両足を鎖でつないだ状態で出廷。バーレーン送還された場合、拷問のほか殺害の恐れもあるとして、報道陣やサッカー関係者に対して解放に向けた支援を訴えた。

 アライビ氏をめぐっては、送還は国際法違反に当たるとしてスコット・モリソン(Scott Morrison)豪首相がタイ政府に解放を求めている。

 アライビ氏はバーレーンの警察施設を破壊したとして本人不在の裁判で有罪判決を受けているが、本人は犯行があったとされる日時には海外遠征で国内にいなかったと主張している。

 また、アライビ氏は自身がバーレーン政府から迫害を受けている理由について、バーレーン有力一族のメンバーでアジアサッカー連盟(AFC)会長のサルマン・アル・ハリファ(Shaikh Salman bin Ebrahim Al Khalifa)氏を非難したことが原因であるとの見解を示している。

(ここまで引用)

昨日の裁判についてはタイ現地メディアも勿論報じています、以下にタイ現地英字メディアのNationの本日の記事をご紹介します。

Nation)‘Don’t send me to Bahrain’: refugee footballer pleads (2019年2月5日)
Nation)難民のサッカー選手「バーレーンに送還しないで」と懇願
http://www.nationmultimedia.com/detail/national/30363525

Nationの報道は昨日の裁判を伝えるのと合わせて、昨日はオーストラリア政府が何度も同選手の開放を訴えた事を伝えています。

Nationによると、昨日の裁判の日には在タイオーストラリア大使館の大使の代理が、裁判所に来ていた各メディアにリリースを配りました。

同リリースでオーストラリア政府は「バーレーン政府は、2014年からオーストラリアに同選手が難民として受け入れられている事を知っていたにも関わらず、タイで拘束されるまでの4年間に、オーストラリア政府に同選手について尋ねたり送還を求めたりした事は一度もありませんでした」と説明しています。

しかしながら同選手が妻とタイを訪れると、バーレーン政府は、タイ政府が同選手を身柄拘束するよう調整してくれることを期待したのだと考えられます。

リリースでは「このような行為がタイ政府を非常に難しい立場においてしまった。特に、今年はタイの政府、国民にとって重要な年であるのに」と指摘しています。

また、オーストラリアの元サッカー選手も裁判所に来ていた各メディアの記者に対し「同選手の開放がされなければ、バーレーンとタイに法的措置が課されるべきだ」と語っています。

上記のように、昨日のオーストラリア政府の発表や元選手の動きなどをNationの今日の記事は報じています。

 

オーストラリア政府が先日のサウジ女性事件に続いて、バーレーン出身の同選手の解放と返還を毅然とタイに求めているのは、人道支援とはかくあるべきと考えさせてくれる行動です。以下は、オーストラリア外相からの本日のリリースで、タイ政府に開放を求めている事を伝えています。

オーストラリア外相リリース)Hakeem Alaraibi (2019年2月5日)
https://foreignminister.gov.au/releases/Pages/2019/mp_mr_190205.aspx?w=E6pq%2FUhzOs%2BE7V9FFYi1xQ%3D%3D

(写真:オーストラリア外相 写真はオーストラリア外務省より)

現在同選手には既報の通り、オーストラリア政府が解放を何度も求めているだけでなく、FIFAまでが異例の開放を求める声明を出していますが、依然としてタイでの拘束が続けられており、バーレーンへの強制送還が危ぶまれている状態が続いています。

オーストラリア政府の大使代理のメディアリリースにも書いてある通り、タイは今年はアセアン議長国となり、選挙も来月実施し民政復帰もする重要な年となります。先週にソムキット副首相が語った通り、TPPへの参加なども発表予定となっている年です

そのようなタイは、人道支援でもより国際的に称賛される国になってほしいと思います。

 

この言葉は、第二次大戦の時代にリトアニアで人道支援の為に、独断でユダヤ人に多数の「命のビザ」を発給した杉原千畝のものです。

「恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。それは何よりも昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。

私も何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた。公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してもかまわないが、それが果たして、国益に叶うことだというのか。

苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している。」(*)

人道支援を実現する時、周りの皆が助けるべきだと言っている中で助ける事は簡単です。

しかし現実には、周りが助けるなと求める圧力がある中で助けられるかどうかが本当の人道支援が実現できるかどうかの分かれ目であって、それは個々の人間の勇気ある決断によってこそ、実現されたという事を思い起こさせてくれる言葉です。

このビザの発給により膨大な数のユダヤ人難民はナチスからの虐殺を逃れる事が出来て、今や人道支援において世界的に有名な話となって、日本の人道支援が素晴らしいものであったことを伝える一つの要因となっているのです。

このような人道支援を実現できる国にするためには、その職務を行う外交官の一人一人が強くなり、責任感ある対応をできるようにしなければいけません。タイでも、国際的な人道支援の実現のために、そのような人材を育てる事が必要だと思います。

 

(*)杉原千畝の「命のビザ」と、第二次世界大戦時の日本のユダヤ難民への人道支援

杉原千畝の「命のビザ」の話は、現在は世界的に有名な、人道支援の鏡というべき日本人の実話です。

第二次世界大戦当時の1940年、ナチスドイツからの迫害から逃れて膨大な数のユダヤ人難民がリトアニアなどに押し寄せていました。ユダヤ人難民たちは、同地のカナウスにあった日本領事館に、ソ連、満州国を経由して亡命することを希望して、その通行許可であるビザの発給を求めました。しかし当時の日本の外務省は同盟国であるナチスドイツに配慮し、ビザの発給を拒否する方針を取っていました。

この膨大なユダヤ難民の窮状を見て、日本の東京の方針に逆らって、独断でビザを発給したのが外交官の杉原千畝です。

杉原夫人は当時、難民たちの内にいた憔悴する子供の姿に目をとめたときに、

「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」

という「旧約の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かんだ。」といいます。

そして「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という杉原の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうしてあげて下さい」と同意したそうです。

そして杉原は苦悩の末に、東京の外務省本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給、リトアニアを離れるまで発給を続けました。このようにして杉原から命のビザをもらってリトアニアを脱出したユダヤ人難民の多くは、当時のシベリア鉄道を経由して脱出することになります。

この時代、それより2年も前の1938年に、満州国とソ連の国境の町のオトポールでも、ナチスドイツに迫害されたユダヤ難民が押し寄せる事件がありました。のちに「オトポール事件」と呼ばれる事件です。ここでは日本陸軍の樋口季一郎少将がユダヤ難民の窮状を見て、ユダヤ難民を保護して、満州国内への入植や、松岡洋右満州鉄道総裁に直談判をしてまで列車を手配して上海疎開へ移動させる手配する英断を下しました。

これに対しナチスドイツは日本に猛抗議を行い、ナチスドイツの外相から日本に抗議文が送られ、日本陸軍内部でも樋口への批判が高まりました。そして樋口は日本陸軍の関東軍から説明を求められますが、それに対して述べた樋口の言葉が以下のものです。

「小官は小官のとった行為を決して間違ったものではないと信じるものです。

満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない」

(樋口季一郎、1938年 関東軍指令植田謙吉大将への書面より)

また、樋口は陸軍の上司であった関東軍参謀長の東条英機に呼び出されますが、そこでも樋口は同様の説明を行い「ヒットラーのお先棒を担いで、弱者を虐げる事が正しいとお思いか」と問いただします。

東条は納得し、「樋口君、よく言ってくれた。君の主張する事は、筋がとおっとる。私も中央に、この問題は不問に付すように伝えておこう」と言ったといいます。

こうして日本政府はユダヤ難民の保護や救済について、ナチスドイツに対し「当然なる人道上の配慮」だとして抗議を受け付けませんでした。

このオトポール事件の2年後の1940年にリトアニアで起きたのが、外務省の外交官だった杉原千畝の命のビザの発給です。

このように当時の日本には、人道支援において後世の歴史にも大きく名を残すほどの貢献を行うことができた人物が複数もいたのです。

Wikipedia)杉原千畝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D

Wikipedia)樋口季一郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E5%AD%A3%E4%B8%80%E9%83%8E

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