アピラット陸軍司令官、軍事予算削減案に猛反対
タイでは来月の3月24日が投票日の選挙に向けて、各政党の選挙戦が繰り広げられています。
タクシン派政党の一つ、プアタイ党(タイ貢献党)などが、2014年の軍事クーデター以降増加しているタイの軍事費について削減を求めていますが、これに対しタイ軍のアピラット陸軍司令官が猛反対を表明しました。
タイの大手英字メディアのBangkok Postが今朝、以下のように伝えています。
Bangkok Post)Apirat attacks Pheu Thai’s call to cut defence budget (2019年2月19日)
Bangkok Post)アピラット陸軍司令官、プアタイ党(タイ貢献党)の軍事予算削減案に猛反対
https://www.bangkokpost.com/news/politics/1631134/apirat-attacks-pheu-thais-call-to-cut-defence-budget
報道によると、昨日の2019年2月18日の月曜にアピラット陸軍司令官は、タクシン派政党であるプアタイ党などが主張している、タイの防衛軍事予算を削減し、その予算をタイの若い起業家を育成するために使うという案について記者から聞かれると、猛反対する事を名言しました。
アピラット陸軍司令官はさらに「彼らはこの曲に耳を傾けるべきだ、”Nak Phandin”」と、右派で反共産主義の曲である”Nak Phandin”にも言及しました。この曲は1975年に、タイの共産主義勢力との闘いの際に愛国心を鼓舞するために作られた曲です。
タイ軍としては、タイの陸、海、空を防衛し、違法薬物、人身売買、不法侵入、密輸などを防止する責務を負っており、タイの約5000kmに渡る国境警備も行わなければならず、さらに他の省庁への協力のために人員も派遣されているとして、軍事予算の必要性を説明しています。
プラユット首相も、タイの防衛軍事予算の拡大は必要不可欠であるとしています。プラユット首相は「より多くの重火器が必要だ、それでなければ他国に追いぬかれてしまう」と語っています。その上で、そもそも軍の予算だけでなく、すべての省庁が予算を毎年拡大している点を指摘しました。また、軍予算のうちハード面の予算の50%以上は、干ばつ地域に給水する給水車を含む、公共サービスに使われている点を指摘しています。
報道されている概要は、上記の通りです。
タイの軍事予算は、軍事クーデターのあった2014年は1830憶バーツでしたが、その後の5年間は以下のように上昇を続けており、2019年は2270憶バーツの予算額となっています。
2014年 1830憶バーツ
2015年 1930憶バーツ
2016年 2016憶バーツ
2017年 2100憶バーツ
2018年 2220憶バーツ
2019年 2270憶バーツ
(データはNLA(Nationla Legislative Assembly)より)
これに対してタクシン派のプアタイ党などは削減を求めており、新しい未来党は軍事予算の30%カットを公約としています。
このように各政党の主張が争われる中で、昨日は陸軍司令官自らが、軍事予算削減案に猛反対を表明しました。
プラユット首相の指摘する通り、軍事予算だけでなく、そもそも全省庁が予算を拡大させている点は、その通りだと思います。
しかしながら、陸軍司令官がここまでの発言をすることは、外国人の日本人にとっては、日本の場合は戦後はシビリアン・コントロール(文民統制)の原則があるため、多くの方に驚かれる一幕でしょうね。
「戦争は、軍人たちの専権事項にしておくにはあまりに重大だ。」
(ジョルジュ・クレマンソー 1841年9月28日 – 1929年11月24日<*>)
日本を含む民主主義国家では、軍が独走してしまう反省を踏まえて、シビリアン・コントロールという原則が作られてきました。
タイも来月の選挙で民政復帰に向けて動き出している現在、タイの民主化を求める国の外国人としては、シビリアンコントロールも含めて、タイが真に民主主義国家となるための取り組みが進められる事を期待しています。
<*>ジョルジュ・クレマンソー (1841年9月28日 – 1929年11月24日)
フランスの政治家、ジャーナリスト。
<略歴>
1906年から1909年に仏首相として、軍備拡張や帝国主義政策を推進。多発していた労働争議に軍隊を投入して厳しく弾圧。イギリス、ロシア帝国と三国協商を結ぶ。
1917年、第一次世界大戦で西部戦線が膠着し、フランス国内に敗戦主義の空気が見られるようになると、レイモン・ポアンカレ大統領に請われ、再度首相に就任し、断固とした戦争政策を強行した。1919年のパリ講和会議では、厳しい対独強硬論、特に多額の賠償支払いを主張し、ヴェルサイユ条約に調印した。
1920年、大統領選挙に敗北して引退。1929年11月24日にパリで死去。88歳没。
上記のように、第一次世界大戦の折のフランス首相として有名なジョルジュ・クレマンソーですが、第二次大戦前の日本とも関わりがありました。
1920年の引退後、ジョルジュは友人のモネから、パリに留学中であった日本の皇族の東久邇宮稔彦王(*)を紹介され、パリで親交を深めたのです。
ジョルジュはフィリップ・ペタン元帥と共に東久邇宮に会見した際に、「アメリカが日本を撃つ用意をしている」として、アメリカの日本との戦争計画である「オレンジ計画(*)」の内容について忠告を与えたことから、東久邇宮は日本帰国後に日本で日米戦争はすべきでないと説いて回りました。しかし日本では西園寺公望(*)以外、誰も耳を傾ける者はいませんでした。このジョルジュの忠告に耳を傾けた唯一の日本の政治家である西園寺公望は、パリ留学時代にジョルジュと同じ下宿で過ごした親友で、第一次世界大戦後の講和会議のパリ講和会議で日本の全権特使として活躍した人物です。
そして1929年、ジョルジュはパリで死去しました。
その後の日本では、日米交渉も大詰めを迎えた1941年、東久邇宮は日本の近衛内閣で陸軍大臣だった東條英機にジョルジュの忠告を伝え、陸軍も日米交渉に協力すべきだと説得しましたが、東條は「自分は陸軍大臣として、責任上アメリカの案を飲むわけにはゆかない」と答え、東久邇宮の尽力は実りませんでした。そして日本は同年12月に真珠湾を奇襲攻撃し、日米開戦へ進んで行ってしまいます。
(*)
(Wikipedia)ジョルジュ・クレマンソー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%BC
(Wikipedia)東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
(Wikipedia)西園寺公望(さいおんじ きんもち)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
(Wikipedia)オレンジ計画
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E8%A8%88%E7%94%BB
タイ情報で、にほんブログ村ランキングに参加中! 見ていただいた記事には、是非以下にクリックをお願いします。