2019年2月26日 PJA NEWS)

米大使館の車に轢かれ重傷、被害者家族が警察に訴え

タイのバンコクで、路上掃除を行っていたタイ人男性が、在タイ米国大使館の車に轢かれて重傷を負いました。

今朝のタイ大手英字メディアのBangkokPostが伝えています。

BangkokPost)US embassy must pay up, says wife (2019年2月26日)
BangkokPost)米国大使館は賠償をと、妻が訴える
https://www.bangkokpost.com/news/crime/1634986/us-embassy-must-pay-up-says-wife

報道によると2019年2月6日水曜の朝、バンコク都庁の職員の27歳の男性が、バンコクの在タイ米国大使館の周囲を掃除していた折に、米国大使館所属の車に轢かれてしまいました。男性の28歳の妻は、電話で事故の連絡をもらいました。

妻によると、被害者の男性は重傷で脳内出血と骨折をしており、緊急でチュラロンコン病院の集中治療室に運ばれて治療を受けていました。

しかしその後、被害者は意識を失ったため生命維持治療を受け、その後はBangphai総合病院へ移り、そこからはタイの公的な医療保険を受けて治療を受けているということです。

しかしながら被害者の妻の女性によると、これまで加害者の米国大使館の運転者からは連絡も受けておらず、事故についての警察の捜査が遅いと感じたことから、昨日の2019年2月25日にはバンコクの警察に、捜査の進捗を早くするよう求める訴えを出しました。

妻の女性によると、公的な医療保険では必要な医療費も全額をカバーできておらず、加えて彼女は出産休暇中だった為、一人で子供の面倒も見ていると語っています。

在タイ米国大使館は本事件について報道官が次のようにコメントしています。

「私たちは事故について認識しており、負傷された方が早く回復をされることを願っています。プライバシーの問題のため、本件の詳細について語る事はできませんが、米国大使館は本件の状況の調査のためにもタイの当局と連絡を取り合い、対応をしています。」

報道されている概要は、上記の通りです。

(写真はイメージ)

なんとも被害者が可哀そうな事件です。日本人には、在日米軍の事件のニュースなどを思い出させられる話ですね。

一般の人の感覚で言うと、慰謝料などは後になるのは仕方ないとしても、まずは必要となった治療費や休業手当などは、治療のために被害者やご家族に必要なお金なんですから、早急に米国大使館側も支払って、被害者が救済されて欲しいと願います。

今回は米国大使館の車が加害者ですから、米国としても早く適切に被害者を救済して欲しいと多くの人が思う、バンコクポストの今朝のニュースです。

「うその外交は骨がおれるし、いつかはばれるが、

つねに誠をもって押し通せば、たいした知恵もつかわずに済む。」

(小村寿太郎 1855年10月26日~1911年11月26日)(*)

日露戦争後のポーツマス会議で日本の全権大使として活躍した小村寿太郎が、外交であるべき姿勢について語った言葉です。

外交官が嘘をつかず、良識ある「誠」の心を持って行動をするという事が、その国の名誉を高めるために重要なことだという意味だと筆者は思います。その重要性を改めて認識させられるニュースですね。

 

(*)小村寿太郎

ポーツマス会議での条約締結に活躍したので有名な外務大臣、外交官です。

明治政府の文部省では第一回の海外留学生に選ばれて、米国ハーバード大学へ留学し法律を学んだ国際派でした。

帰国後は日本の外交官、外務大臣などとして対清国、対韓国、対ロシアの分野などで活躍しましたが、日露戦争後のポーツマス条約締結により、怒り狂った日本の民衆から迫害されてしまい、その後は56歳の若さで結核で亡くなりました。墓所は東京の青山霊園にあります。

日露戦争後のポーツマス条約を結びに行く際、小村は東京の新橋駅へ出発の見送りに来た首相の桂に「帰って来る時には、人気はまるで正反対でしょう。」と語ったと言います。国際感覚の鋭い小村は、大国のロシアは日本に負けたという認識などしていないという事を理解しており、この交渉が非常に難しい事をわかっていたからです。

この交渉では、その途中経過は日ロ両国とも口外しないという合意がされていましたが、ロシア側の政治家のセルゲイ・ヴィッテは、親日世論のあったロイター通信やアメリカのタイムズ紙などに交渉の途中経過を漏らし、世論工作を実施してきました。しかし小村は最後まで合意を守り、一切の口外をしませんでした。

そしてポーツマス条約が結ばれますが、結ばれた日の夜、小村はホテルの自室でずっと泣いており、ホテルの警備員が「不思議な泣き声がする」と小村の部屋の様子を見に行ったという逸話が残っています。それほどまでに、この条約を結ぶ事は小村にとって苦渋の決断だったのです。

帰国後は小村が予想した通り、小村は右翼団体などを中心とした、怒り狂った民衆からの罵声や投石などに苦しめられる事になります。その後は日比谷焼き討ち事件や、小村の自宅への投石などが続き、小村の妻は精神的に追い詰められてしまい、家族とは別居をしいられてしまいました。

小村は自身による日記は一切つけず、「自分の功績は、後世の人々が判断するべきことだ」と語っていたといいます。

その後世の日本人としては、この小村のような外交官をこそ、客観的に正しくしなければいけないと思う、明治の外交官です。

(Wikipedia)小村寿太郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%91%E5%A3%BD%E5%A4%AA%E9%83%8E

(Wikipedia)桂太郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A4%AA%E9%83%8E

(Wikipedia)セルゲイ・ヴィッテ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%86

(Wikipedia)日比谷焼き討ち事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E7%84%BC%E6%89%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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