タイ)ラチャブリ―で第二次大戦時の不発弾発見、避難命令検討
タイのバンコクの西部にあるラチャブリ―県で、第二次世界大戦の折に落とされた不発弾の爆弾が発見され、住民避難命令が検討されるなど大きな騒動となっています。
タイの大手英字メディアのBangkokPostが本日の2019年6月10日朝、次のように伝えています。
BangkokPost)Evacuation mulled after WWII explosives discovery (2019年6月10日)
BangkokPost)第二次世界大戦時の不発弾発見で、住民に避難命令を検討
https://www.bangkokpost.com/news/general/1692216/evacuation-mulled-after-wwii-explosives-discovery
報道によると、タイのラチャブリ―県での鉄道の工事の折に、第二次世界大戦時に落とされた爆弾の不発弾が発見されました。
ラチャブリ―県は、地図で言うとバンコク西部の以下の場所にある県です。
報道によると、鉄道工事の際に作業員が第二次世界大戦当時の不発弾を発見。運輸省の情報筋によると、見つかった爆弾は1000ポンド級の通常爆弾ということです。
同エリアは1941年に日本軍がタイに進駐した後、連合軍による日本軍と同盟国への空襲が激しかった場所の一つでした。
当局では爆弾の危険性を考え、住民避難命令を検討しています。
また、不発弾は別の場所でも発見されました。
写真:タイ国鉄)
報道されている概要は上記の通りです。
BangkokPostでも言及されている通り、このラチャブリ―県のエリアは第二次大戦中にタイに進駐した日本の陸軍方面軍である第18軍を中心とする部隊と、ミャンマー戦線などを結ぶ泰麺鉄道があったエリアに近く、日本軍やタイ軍を狙った、米軍を中心とした連合軍の爆撃が激しかった場所です。
参考)第二次世界大戦中の日本陸軍第18軍司令官、中村明人中将について書いた過去記事
PJAニュース)コラム)タイでは皆知っている日本人”小堀”のルーツとなった実話とは!?(2017年10月29日)
https://pattayaja.com/2017/10/29/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%A7%E3%81%AF%E7%9A%86%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%B0%8F%E5%A0%80%E3%81%AE%E3%83%AB
連合軍によるタイへの空襲は真珠湾攻撃の翌年である1942年にバンコクで始まり、1942~1943年頃はB24などがタイに飛来し空襲を実施しました。
そして1944年あたりから日本軍が敗色濃厚となってくると、そこに米軍が大型の戦略爆撃機であるB-29を世界で初めてタイへの空襲で実戦投入をしてきました。このため1944年からタイへの空襲は熾烈を極め、1944年1月から1945年1月の一年間だけで、連合軍による空襲はタイ全土に約250回も実施されました。
この期間に空襲でタイに来襲した連合軍の航空機はおよそ2,950機、落とした爆弾は18,600発、焼夷弾は6,100発。記録されている被害は死者1,900人、負傷者3,000人、建物損壊9,600棟、建物全壊1,200棟です。
今回見つかった不発弾は、上記の空襲が激しかった時期に落とされたものでしょう。
爆弾の写真の爆弾の形状と、ここに爆弾が落とされた空襲の時期と、BangkokPostによると1000ポンド級の通常爆弾であるということなので、これらを考えあわせると米軍のAN-M65型爆弾の不発弾の可能性が高いのではないかと思います。
この爆弾は日本への空襲でも多く使われた爆弾の一つで、当時米軍がこの爆弾を空襲で使う際には1%ぐらいの時限爆弾を混ぜ、空襲後の消火や救助などをしに来た人間を攻撃する事を狙う事が一般的でした。この時限爆弾は特に不発弾となりやすい爆弾でした。
一方でこの時期の通常の信管の爆弾も当時の調査によると、不発弾発生率は5%弱(*)と高くあったので、今回見つかった不発弾は通常信管の不発弾の可能性が高く、他に時限爆弾の不発弾の可能性も少しあるという状況ではないかと思います。
(*)1943年1月から1944年1月にオランダ領インドシナに投下された爆弾を日本軍が調査した統計では、以下の資料の通り平均して不発弾発生率は4.6%、時限爆弾は0.9%というデータでした。
このような不発弾の処理は、専門的な技術を持っている人間も極めて少数で、危険性の高いものです。
報道によると、タイ政府は海外も含めて専門家の助力を求めています。
このような爆弾の不発弾が見つかるという、今も戦後なのだということを思い出させられるタイのニュースです。
補記)第二次大戦の後半、日本軍は防空能力を失っていた。
1944年頃から連合軍によるタイへの空襲が熾烈となった折、タイの日本軍は陸軍航空隊の一式戦闘機「疾風」などを中心とする航空隊や対空砲で迎え撃ちました。
しかし米軍側は「スーパーチャージャー」という、エンジンの吸気に圧力をかけて吸入する空気量を増大させる装置の技術などにより、当時の日本軍の飛行機では飛ぶことも難しく、対空砲すらも届かない高い高度から空襲を行っていました。
このため、迎撃はほとんど成果を上げる事はできませんでした。そしてタイで日本軍は空襲などを防ぐ事ができなくなり、被害は甚大なものとなって、ついに1945年8月に終戦を迎えるのです。
いよいよ終戦も直近となった1945年4月以降、上記のコラムでも取り上げたバンコクの第18軍司令官である中村明人中将は当時のタイへの空襲について次のように回想した記録を残しています。
「このところ敵空軍は白昼堂々バンコクの上空に飛来し傍若無人の猛威を振るった。また市民のために慰問品や薬を投下し、宣伝のビラをまいた。しかし、これを反撃する飛行機は一機もなく、高射砲も射程がとどかなかった。」
このように、戦力差と技術力の両方で日本は防空能力を失い、タイの空襲による被害は甚大なものになっていったのです。
ちなみに、戦争中に日本でこの「スーパーチャージャー」を開発し、日本の航空機を高い度で飛べるようにした人間の1人は、当時日本の航空技術を開発していた筆者の父方の祖父だったそうです。
戦後は大学教授になった祖父ですが、戦争中は墜落した米軍の爆撃機を見つけ、これを解体してスーパーチャージャーなどを発見し、これを日本で作って日本の航空機に取り付けて、日本軍の飛行機も高い高度で飛べるようにした話など、よく筆者にしてくれていました。
このような日本側の開発により、終戦直近の頃には日本の航空機にも米軍同様に高い高度を飛ぶことができるものもありましたが、そもそも戦略的に国力、技術力、戦力差の全てに差がつきすぎており、大勢には影響しませんでした。
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