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バンコク)記念日に日本製SLが運行!記念日の歴史とは?(動画付き)





2019年10月23日 PJA NEWS)

バンコク)記念日に日本製SLが運行!記念日の歴史とは?(動画付き)

本日の2019年10月23日は、タイのラーマ5世(チュラロンコン王)が亡くなられた日です。

ラーマ5世の治世は1868年10月1日から1910年10月23日、日本では明治時代の明治天皇の頃と同時代でした。
多くの日本人が、ラーマ5世と言われて思い出すのは、かつて学校で習ったタイの中央集権や官僚制、議会制の導入、学校教育の普及、奴隷売買の廃止など、タイ王国を近代化した事で世界的に有名な名君という面でしょう。

ラーマ5世(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E5%E4%B8%96

ラーマ5世は他にも、タイの鉄道開通に尽力した、タイ鉄道の開祖というべき功績もあります。

この日を記念して、タイのバンコクでは日本製のSLが運行されました。
以下は、そのSLが本日、バンコクを出発する様子を写したFNNプライムオンラインの動画ニュースです。

タイでは、10月23日は、タイの鉄道開通に尽力したチュラロンコン王が亡くなった日。
これを記念して運行される日本製のSLが、バンコク駅を出発。
このSLは、1974年まで市民の足として活躍したもので、およそ800人乗りの列車は満席。
乗客らはカメラなどで撮影し、記念運行を楽しんでいた。

ラーマ5世の鉄道開通への尽力

タイのラーマ5世がタイの鉄道の開祖となった背景には、ラーマ5世が鉄道網の必要性を痛感した事件がありました。

1872年、タイは今のラオスにあったルアンパバーン王国を属領としていましたが、このルアンパバーン王国に中華系のホー族による侵略が始まりました。

そして1887年、もともとは中国の太平天国の乱に客家として参加した劉永福が率いる黒旗軍が、この頃は乱の残党となって、ベトナムの傭兵となりフランスと戦っていたのですが、その黒旗軍もラオスのルアンパバーン王国に侵略してきたのです。

これにより、ルアンパバーン王国の住民への略奪は熾烈を極め、酷い惨状となりました。
タイの
ラーマ5世はこの頃、タイから軍勢6,700名をラオスのルアンパバーン王国へ派遣、この反乱を鎮圧しようとします。

しかし、ここで問題となったのが兵站、つまり食料や武器・弾薬などの補給物資を運ぶ方法でした。

タイは当時から水運が盛んで、川に沿ってなら大量の補給物資を運ぶことができました。
しかしラオスのルアンパバーン王国へ運ぶとなると、以下の地図でバンコクからラオスへ運ぶルートを見るとわかる通り、陸上での輸送が必要になるのです。

当時のタイの記録によると、タイ王国は当初、この陸上輸送を象や牛で行おうとし、象約180頭、牛約500頭が輸送する方法で米約724トンを送りました。しかし、この方法では目的地のラオスのルアンパバーン王国現地に輸送できたのは、わずか8トンだけでした。割合にして、わずか1%強しか運ぶことができなかったのです。

兵站を確保できなかったタイ軍は反乱を鎮圧する事ができず、ルアンパバーン王国はタイ王国の支援も得られず、中華系のホー族や黒旗軍の猛攻に晒されます。

そして当時のルアンパバーン王国のウン・カム国王は、フランスの援助を受けて国を脱出、バンコクへ逃亡しました。この結果、ルアンパバーン王国の国民は救援が遅れたタイ(シャム)への不信感を持つようになり、むしろ国王を救出したフランスへの信頼感を持つようになります。

この直後の1893年、ラオスをめぐってタイはフランスと仏泰戦争が発生、この戦闘でタイはフランスに圧倒され、タイはラオスの属領を失ったのです。

この後、ラオスのルアンパバーン王国は旧ヴィエンチャン王国と共にフランスの保護国となり、仏領インドシナへとなっていくのです。

輸送を失敗してしまった事からラーマ5世は、陸上での兵站のために鉄道輸送網の整備の必要性を痛感します。この時代のタイにはフランスだけでなく、イギリスも植民地の拡大を目論んでいましたから、イギリスやフランスからタイを守るために、日本やドイツの事例をモデルに鉄道輸送網の整備を急いだのです。

ラーマ5世の鉄道輸送網の整備は、特にラオスへの軍の派遣でも必要性が痛感された、タイ東北部方面への整備が急がれました。タイの場合、チャオプラヤー川やメコン川による水上交通は発達していたのですが、東北地方は水上交通では運べず、兵站の欠点が大きくあるためです。

ちなみに、このルートは以下の記事でお伝えしている、現在建設中のタイ高速鉄道のバンコク~ビエンチャンを結ぶ路線と近いルートです。

PJA NEWS)タイ高速鉄道:中国との路線、2つ目11kmの建設契約をタイ企業が締結
https://pattayaja.com/2019/03/07/3166/

ラーマ5世の鉄道網整備においては当初、レールの軌間幅がタイ北部方面は1,435mm、南部方面は1,000mmと異なって始まってしまっており、南北の相互乗り入れなどはできないものとなっていました。しかしながら、これでは鉄道網の効率が悪くなってしまうことを懸念し、ラーマ5世は10年以上の年月をかけて、タイ国内の全てとマレー半島内の鉄道を1,000mmに統一しました。これにより、タイ鉄道網は非常に効率的に整備されていったのです。

こうしてラーマ5世は、タイ鉄道の開祖と評されるほどの成果をあげました。それで、本日の10月23日にはラーマ5世を記念して、このような記念日のイベントが行われているわけです。

ルアンパバーン王国、黒旗軍のその後

これは余談ですが、ルアンパバーン王国や黒旗軍のその後には、いずれも日本が大きな影響を与えました。

ラーマ5世の時代に失われた、タイの属領だったラオスのルアンパバーン王国は、その後フランスの保護国となり、仏領インドシナとなります。そこに侵攻したのは日本でした。1940年、日本陸軍の中村明人の部隊が独断で仏領インドシナに侵攻したのが始まりで、その後日本によりタイは属領の仏領インドシナを回復したのです。

この時代の話は、以下の過去記事をご覧下さい。

コラム)タイでは皆知っている日本人”小堀”のルーツとなった実話とは!?
https://pattayaja.com/2017/10/29/168/

また、ラオスのルアンパバーン王国に侵略した、中国の太平天国の乱の残党の黒旗軍ですが、これを最終的に壊滅させたのも日本軍でした。

黒旗軍はラオスのルアンパバーン王国を侵略した後は北京に戻り、そこで劉永福は清朝に解散を命じられます。
しかし、その後の1894年に日清戦争が始まると、劉永福の指揮の下で再度、黒旗軍が組織されました。
1895年、日清戦争は下関条約によって終結。敗れた清朝は台湾を日本へ割譲する事が決まり、台湾は日本の統治下に入りました。すると黒旗軍は台湾に行き、清朝の残兵などと合流して、日本に抵抗するために「台湾民主国」の独立を宣言。日本への武装蜂起を行いました。

台湾での武装蜂起の報を受けた日本軍は、第2軍の隷下に入っていた陸軍中将北白川宮能久親王を師団長とする近衛師団を台湾に派遣、両軍は台湾で戦闘となります。

1895年5月29日、日本軍が台湾に上陸すると、台湾民主国の首脳陣は逃走します。そして日本軍は台北の無血開城を成功させますが、その後は台湾全域を平定しようとする日本軍に対し、台湾民主国を名乗る武装蜂起勢力はゲリラ戦を展開します。
これが、乙未戦争(いつびせんそう)と呼ばれる戦争です。

日本軍は軍人約5万、軍夫2万6千人の合計7万6千を台湾に投入、台湾民主国を名乗る側は官軍が3万5千、さらに義勇軍が10万ほどはいたとされています。

この戦争の様子を描いた浮世絵が以下のもので、日本軍の近衛師団や軍旗も描かれています。

この戦争で台湾全域を平定するまでに、台湾民主国を名乗る側は日本軍の猛攻を受け、官軍、義勇軍、住民合わせて約1万4千人の死者を出し壊滅的な状況に陥りました。この際に黒旗軍も壊滅、終わりを迎えたのです。

一方で日本軍側は軍人の戦死者164名、負傷者514名と、戦いでの被害は少ないものの、病死者が4642人と、病気による被害を甚大に出しました。さらに軍夫にも長期にわたる戦いで、推計約7千人と言われる大きな被害を出したのです。

澳底で露営する近衛師団長の能久親王一行
この時代は、既に写真の記録も残っています。

こうした動きを、殆どの国が欧米列強に植民地にされていた当時の東南アジアの国々から見てみると、当時の日本がいかに眩しく見えたのかがわかります。

さらにこれも余談ですが、タイで走る日本の蒸気機関車と言えば、日本からタイへの蒸気機関車などの列車には、第二次世界大戦後に日本からタイへの賠償として贈られた歴史もあります。

コラム)タイでは皆知っている日本人”小堀”のルーツとなった実話とは!?
https://pattayaja.com/2017/10/29/168/

SLイメージ
(写真はイメージで、本記事とは関係ありません。)

1945年8月に第二次世界大戦で日本が降伏し、上記の過去記事の通り、その後は日本は敗戦国としてGHQに占領されて戦後処理を行われることとなりますが、タイは英米への協力をしていた自由タイ運動への評価などによって、敗戦国として処理される事を免れることができました。

この戦後処理の際、食料不足に悩んでいた連合国側から、米の供給余力があったタイは、米150万トンの提供を命じられます。
しかし戦後のタイでは鉄道車両が不足しており、この実行は実質上不可能でした。そこで連合国側は、敗戦国である日本の蒸気機関車や列車をタイへ「賠償」の名目で提供させたのです。

この日本からの賠償の列車により、タイは連合国側に食料を輸送することに成功しました。このような功績などによって、タイは戦後は早い段階で国連にも加盟する事が出来ました。

このように、日本からの列車はタイの戦後の国際復帰を助けたという歴史もあるのです。

と、今日の記念日の背景を書いているうちに、なんだか余談ばっかりとなった記事でした。

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